今までやってきたことをやめるのには勇気がいる

変わりたい。変えたいと思う今日この頃。

変えたいのは自分のモノの消費クセと、時間の使い方

以前にも書いたのだけど、今の私は無駄に消費をしすぎである。無駄とは、買いすぎかどうかではなく、実際よく考えてみると不要という意味。私にとって不要とは、「誰かにこう見られたい」「こう思われたくない」から購入するもの、または「過剰な便利さを求めて買う」「先読みで買う」とかを指す。自分が純粋に欲しくてたまらないものは良しとする(限度はあるけど…)。

時間の使い方に関しては、私はかなり効率的な方だと思う。ずっと効率を考えて動いてきたし、1分1秒を無駄にせず活用したいと考えている。それでも時間は足りない。今では日々変化する「やりたいこと」に充てる時間が足りないと考えている。

やらないといけないと思っていることが多くないか

15年以上、やりたいことができないのは自分の非効率せいだと考えて生きてきた。もっと改善できる。非効率な部分に気づき、それを変化させることが生きがいでもあった。しかし効率的になり、詰め込めば詰め込むほど、『感情』を失ったように思う。これが『効率』の副作用なのか?

また、「自分がやるべきだと思っていること」が(他人と比べたことはないが)結構多く、それが負荷をかけていた。自分がやらないといけないのに出来ない、または代わりに他人がやってくれるということに関して、ストレス以外の何者でもない。そのストレスから目を背けるためにも、感情は捨てたほうが効率がよかったのかもしれない。

どちらにせよ、これ以上の効率化=感情を失うことは、対人関係(特に近しい人)にマイナスの影響が出る。実際出てきた。

簡単に言うと、今やっていることをやめるタイミングがきたわけだ。

何をやめるかをどう決めるのか

やめるということは恐怖との闘いである。

私の場合、「自分がやるべきかどうか」と入念に考えて出した結論から、やるべきことを決めてやっている。全て自分の将来のためや、仕事のため、趣味を高めるためにやっているつもりである。昨日までは全て「必要なこと」と納得しながらやってきていることである。

しかし可能な限り冷静に、客観的に現状を見たときに、やることが多すぎて中途半端になっていることも認識できる。それをバランスというのかもしれないが。結論がでないことを続けていると認識することも可能である。それを準備期間というのかもしれないが。。

何をやめるかを決める際に、やはり軸としてないといけないのは『どう生きるのか』ということに尽きる

自分がどう生きるのかは日ごろから考えるが、きっと私の「考える」は考えた内に入らないぐらい浅いと思う。自分のことなんてそんなにわからない。そんな状態でやめることを決めてもいいのだろうか。

でも決める。

やめてみてから考えればよい。まずかったら再開すればよい。

やめるかわりに選択と集中を

やめるからには、残ったものに全てを注ぐ必要がある。やめた分、単純に増やしたら一緒だ。選択し、フラッシュアップし、より濃くしていく。何でどんな結果をだすかちゃんと決めておかないと、やめたコトたちがうかばれない。

恐怖を払拭するのは「恐怖に打ち勝つ力を持つ大きさの希望や期待」ではないかと思う。堅苦しく言うと「見込み」。

「これをやめても、あれがあるから大丈夫」そういうものを可能な限り洗い出し、自分の恐怖に打ち勝つしかない。

動き出すと恐怖など忘れてしまう。次の新しい問題や、次の違った恐怖が襲ってくる。それは良きにしろ悪しきにしろ変化であり成長なのだろう。逆に言えば、それの繰り返ししかできないし、それ以上のことはできないのではないかと思う。